東海道53次の旅 Part 1-4 横浜天王町駅~茅ヶ崎

「相鉄天王台駅茅ヶ崎駅前」
 
前日4月24日(土)に日本橋を出発して横浜の相模鉄道天王町駅で1回目のゴール。
横浜の東横イン関内に宿泊して、夕食は近くの横浜中華街でささやかな打上げ。コロナ禍の最中、飲食店は時短営業中の為、軽めに飲んで食べて明日に備えます。
 
4月25日(日)2日目は昨日のゴール地点、天王町駅からスタートです。
国道1号線と並行して走る旧道を進み、JR保土ヶ谷駅を過ぎると、すぐに保土ヶ谷宿に到着。
ここには旧本陣跡、旅籠跡、一里塚などが並びます。

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保土ヶ谷宿は江戸から数えて4番目の宿場で、明治になって宿場制度が廃止されるまで、栄えたと書かれています。

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「本陣跡」の標識のあるところには、こんな建物が。

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大名の泊まる本陣のほかに、一般の旅人が泊まる旅籠もあります。

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旅籠屋跡の標識の立っている場所にはこんな建物が。

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街道標識に欠かせない一里塚。これまでにも横浜の市場村一里塚、東子安一里塚など見てきたが、いずれも一里塚の跡の標識のみで、当時の形態を残している一里塚は、ここ保土ヶ谷の一里塚が初めてです。

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一里塚は遠くからその位置が分かりやすくするために、土盛りをした小山をつくり、さらにその上に樹木を植えられていたそうです。
ここ保土ヶ谷一里塚は、そっくりそのままの形態が残されていました。江戸より8里目、32㎞地点です。

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保土ヶ谷宿のすぐ先に、箱根駅伝でお馴染みの権太坂
現在の国道1号線は、旧東海道が走っていた山を大きく削り取って切通のようにまったく異なる道筋が出来上がっていますが、旧道はウネウネ細くて急な坂が続いています。なるほど、この権太坂はかなりの急坂で、そして長い。

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権太坂の名前の由来が書かれていました。 

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さて、権太坂を上り詰めると今度は東戸塚方面へ下って行くのですが、ここで道を間違えます。下の写真の標識にあるように旧東海道は左折となるのですが、うっかり直進してしまいました。
 
この先、道は片側2車線の綺麗な道で、どんどん下っていきます。
今までの東海道の道とは様子が違うことは明らかなのですが、下り坂なので快調に下っていきます。ようやく変だと思ったのは、下り坂が終わってJR東戸塚駅の近くの高層ビルの街並みになってからでした。実はもう到着しても良いはずの「品濃一里塚」が無かったのです。小さな一里塚で見落としたのだろうか? いやそんなことは無いはず。そう思って地図を確認し、ようやく道の間違いに気が付きました。 たぶん1キロ以上は来てしまった感じです。しかも快調に下ってきたの戻るには、登りになります。しかし、東海道53次を完踏するには、ここはしっかり間違ったところまで戻って、やり直さなくてはいけません。

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コース図の、左側に出っ張っているところが間違って進んだ部分です。往復で2㎞以上、距離を稼いでしまいました。

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正しい道に入ってすぐに、品濃一里塚。
江戸から9里目(36㎞)です。
ここは神奈川県内でほぼ当時の一里塚が完全な形で残っている、唯一の一里塚だそうです。そんな貴重な一里塚を、危なく見逃してしまうところでした。

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高さも十分にあり、ちょっとした山。これなら相当遠くから認識できたに違いない。裏側に道があって、山頂に登ることができます。

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保土ヶ谷宿から戸塚宿に向かいます。

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宿場の途中は少し当時の面影を感じることが出来るが、それ以外は何と言う事もない普通の道を黙々と進む。

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戸塚宿の江戸方見付け。
見付けとは宿場の入り口のことだそうです。反対側には京口見付けがあって、その見付けの間が宿場ということになります。

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浮世絵に残された、江戸時代の戸塚付近の様子。

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澤邊本陣跡

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戸塚を過ぎると、次は藤沢宿を目指します。
今日のゴール、箱根湯本は小田原の先になる。

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戸塚~藤沢間には、こんな風にいい感じの並木もありました。

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藤沢宿着。

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橋を渡ると藤沢宿の街並みが。

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藤沢宿に立派な資料館がありました。

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当時の藤沢宿の様子が良くわかります。

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この資料館の前に今もかかる橋。写真は昭和5年

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昭和初期の街並み。

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大正時代の街並み。

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現在の街並み。

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江戸時代ではないけれど、「義経の首を洗った井戸」という史跡がありました。

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中央奥のベンチのようなところが井戸。

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この先は茅ヶ崎目指して国道1号線を進む。

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茅ヶ崎に向かっては、こんな松並木が続く。いかにも東海道の雰囲気が感じられる。

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もう茅ケ崎は近い。静岡122㎞の標示。遠いなあ。

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茅ヶ崎一里塚。日本橋から14里(56㎞)

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ここも土盛りがあって、その上に樹木と言う典型的な一里塚スタイル。

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茅ヶ崎一里塚の次の交差点が「茅ヶ崎駅前」。ここがこの日のゴールです。

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横浜の先のこの区間は、結構細かくアップダウンがありました。

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4月24日に日本橋から始まった東海道53次の旅第1回目(1泊2日)は、これで終了です。
初日33㎞、2日目30㎞、合計63㎞でした。16里の一里塚を過ぎたので、もう少し距離は進んでいたのだろうか。それにしても距離的には思ったより進めなかったけれど、まあ写真もたくさん撮ったし信号の多い区間でもあったので、こんなものだと思います。次回以降もこんな感じで1日30㎞を目安に、のろのろとしかし確実に京都に近付いていければいいかなと思います。
 

東海道53次の旅 Part 1-3 六郷橋~天王町駅(横浜市)

 
日本橋を出発してから最初の都県境である多摩川を渡ると、すぐに川崎宿に到着します。

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東海道川崎宿交流館」に立ち寄る。
ここには当時の宿場のジオラマもあって、楽しめます。

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現在の川崎宿の街並みは賑やかで、両側にはビルが立ち並ぶ。飲食店も多い。
焼き鳥丼の美味しそうなお店があったので、ここで昼食兼大休止。
美味しかったんだけど、どんぶり飯とビールで満腹となり、ここから先はしばらく歩くことになりました。まだ品川を出てから20キロくらいしか走ってないけれど、こんな感じで先を急がずゆっくりと進んでいこうと思います。

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川崎宿を過ぎて少し進むと、京浜急行八丁畷(ハッチョウナワテ)駅。ここで踏切を渡り、ここからは京急の右側を進んでゆきます。

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八丁畷を過ぎてしばらく進むと「市場村の一里塚」に到着です。
一里塚を確認できたのはこれが初めてです。ここは日本橋から5つ目の一里塚なので、やっと20キロということになります。

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一里塚の先で鶴見川を渡ります。
多摩川は当時橋が無く「渡し」だったので、日本橋をスタートして最初に渡る大きな橋だったそうです。

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京急鶴見駅の少し先で国道15号線を渡り、旧道を進むとキリンビール横浜工場の前に出ます。何年か前に、工場見学に来たことを思い出します。その時は横浜から走ってきたのですが、試飲した出来立ての「一番搾り」が本当に美味しかったです。

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そのビール工場の脇に、有名な「生麦事件」の碑があります。これ、位置が少し移動されていますね。前は20~30m手前の旧道と国道15号線の合流地点にあったと思います。

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中央の軽バンが停まっている駐車場のところにあったような記憶があります。

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「東子安一里塚」到着。
日本橋から6つ目(24キロ)です。
ここは看板だけで、一里塚の痕跡はありません。

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生麦事件碑を過ぎてからは、横浜目指して国道15号線の歩道を進みます。
国道沿いにこれといった旧東海道を感じさせてくれるものは何もなくて、ちょっと単調で飽きてくる区間です。ここはひたすら我慢で走って、国道が横浜駅の南口に着く少し手前、京急神奈川駅の脇でJRと京急の線路を超えると、神奈川宿に入ります。

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日本橋から3番目の宿場。日本橋から約29キロ地点です。
当時は海の見える景勝の地であったと看板に書かれていますが、今は横浜の海までは最短でも2キロ近くある感じです。
 
下の写真の「田中家」は当時から続く唯一の料亭として、今も営業しています。
看板の左下に当時の「田中家」の写真が載っています。ここで坂本龍馬の妻、おりょうさんが働いていたということが書かれています。
ちょうど、和装の素敵な女性がお客様をお見送りしている場面に遭遇しました。
おりょうさん、どんな感じの女性だったのでしょうか。
当時からこうしてこの場所で営業を続ける田中屋なんですね。歴史を感じさせてくれます。

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ちなみに、この辺りが旧東海道横浜駅に最も接近している地点になります。
たぶん400~500mくらいの距離かと思います。この先旧東海道は。横浜の繁華街の北側を巻くような感じで、次の宿場「保土ヶ谷宿」に向かいます。
 
さて、ここ神奈川宿に到着したのが既に15時少し前です。
この日は横浜の関内にホテルを予約しているのだけど、横浜はコロナの影響で飲食店は20時までの時短営業中です。一旦ホテルにチェックイン後に夕食にするには、逆算するとどこを今日のゴールにするのか、同行者と相談しながら進みます。
 
相模鉄道天王町駅」に向かう商店街。この道も旧東海道です。

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当初の予定では保土ヶ谷宿を過ぎて、「境木小学校前」からバスで関内に向かう予定でしたが、どうやらそこまでは時間的に行けそうもありません。結局、今日のゴールは相模鉄道の「天王寺駅」としました。 日本橋から天王寺駅GPSの標示は33.7キロでした。時間は15時30分です。スタートして7時間半の東海道の旅でした。
 

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記念すべき東海道53次の初日の旅は、こうして無事終了しました。
何が何でもどこどこまでと決めずに、その日のコンディションでゴールを決めていこうと思います。
33キロという結果はまあ想定通りでした。これからも、だいたい30~35キロ/日くらいを基本にして進んで行けたらいいかなと思います。
 

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天王町駅から相鉄線横浜駅へ、そこからJR根岸線関内駅に向かいます。
東横イン関内」にチェックインしてシャワーを浴びて、中華街へ向かいます。このホテルからは中華街まで徒歩5分程で到着できます。マリンスタジアムも目と鼻の先です。
東京は明日から緊急事態宣言が発令されます。横浜は蔓延防止措置の区域になっているので、4日後の28日からは、終日飲食店でのお酒の提供ができなるのだそうです。残念ですね。
感染防止には気をつけながら、ささやかな初日の打ち上げでした。

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1-2東海道53次の旅 日本橋~六郷橋(渡し)

4月24日 am8:00
遥か500キロ先の京都三条大橋目指し、日本橋を出発しました。
しばらくは銀座通りを進みます。朝8時の銀座通りは人影も少なくて快適な道です。東京の街並みは本当に美しいなあと改めて見とれながら走ります。
 
ちなみに銀座通り(中央通り)は日本橋から国道1号線としてスタートしますが、すぐ橋の南側にある日本橋交差点で1号線は右折して大手町方面に、直進する銀座通りは国道15号線になります。
 
最初のチェックポイントは、京橋(きょうばし)の親柱。
なかなか立派な柱です。標示をみると、橋がかけられたのは慶長8年(1603年)と言うから、もう400年以上も前になりますが、この親柱は大正11年に架け替えられた時のもの。当時はここに川が流れていたと言う事ですが、昭和38年に川の埋め立てが始まったそうです。ちょうど昭和の東京オリンピックの頃ですね。今はその川の底に首都高の環状線が走っています。

標示に載っている当時の街並み。なんだかヨーロッパの街並みみたいですね。

 
銀座4丁目を過ぎて新橋へ向かいます。
東京マラソンのコースは、この銀座4丁目交差点を右折して数寄屋橋~日比谷方向へ向かいます。

新橋を過ぎてしばらく進むと、札の辻で再び東京マラソンコースに合流します。
その札ノ辻の少し先にあるのが「高輪大木戸跡」。
ここは東京の南の入り口で、道幅の両側に石垣を築き、夜間はその大木戸が閉められたそうです。
 

 
大木戸跡の少し先にあるのが、高輪ゲイトウェイ駅。
駅舎はあるけれど、駅の周りはまだ何もなくて、駅前の開発工事はまだこれからです。ここから品川再開発地区にかけて、何年か後には全く新しい街が出来上がっている事でしょう。旧東海道の史跡と、対照的な新しい東京の街作りです。

東京マラソンの折り返し地点を過ぎると、すぐ品川駅。その駅を少し過ぎて15号線を右に見送って左折。JRを陸橋で渡ると、いよいよ旧道の品川宿に入ります。品川宿は、日本橋を出発して最初の宿場、京都から来て最終の宿場となります。

今は両側にビルの建ち並ぶ街並みも、道幅は当時と同じだそうです。

品川を過ぎて、青物横丁、鮫洲と京浜急行沿いに雰囲気のある旧道を辿り、やがて国道15号線に合流するところにあるのが有名な「鈴ヶ森刑場跡」

 
鈴ヶ森の刑場跡からは15号線の大通りを走りますが、大森交番のところから左に分かれて、三原橋通りへと入ります。
 

昔のままの道幅が、いい感じです。

三原橋通りを進み、大森警察署前で15号線に合流する手前に「大森の一里塚」があると資料に書かれていたので探してみたが、これがどうしても見つからない。大森一里塚は江戸から3里(12キロ)目のものになるのだが、1里目、2里目は位置が不明らしい。この一里塚が最初に確認できるのかなと思っていたので、これはちょっと残念。しばらく探してみたが、結局見つけることはできず、先に進むことにしました。 

 
大森一里塚を探した形跡

 
道は京浜急行の梅屋敷とか蒲田とかの駅を脇にみながら国道15号線の歩道を進むが、この辺りは単調で面白みに欠ける。

 
 
京急雑色(ぞうしき)駅を過ぎると、東京都と神奈川県の県境である多摩川も近い。
単調な道をひたすら走ると、やがて多摩川に掛けられた六郷橋へ。

 

下を流れる多摩川のちょうど真ん中あたりが都県境。
ここから神奈川県です。東海道の旅の2つ目の件に入ります。
 
橋を渡って、神奈川県側の標示。

六郷大橋は家康が架けたそうですが、洪水でなんども流されて、結局六郷渡しの時代が続いたと記されています。
ここまでで日本橋から11キロくらい。結構走った気がするが、まだ11キロか。11/500です。先は長いです。
 

1-1東海道53次の旅 日本橋出発編

日本橋を起点に京都まで伸びる、旧東海道
道フェチを自覚する私にとって、いつかは辿ってみたい道。
しかし、いつかはって、いつだ?
いつかはなんて言ってないで、思った時にとにかく始めよう!
と思ったのが今年の1月。
 
もちろん一気に京都まで行くのは、体力的にもスケジュール的にも無理なので、少しずつ刻んでの実行です。
まずは1泊2日で日本橋をスタートして、平塚か大磯あたりまでとのもくろみで、2021年4月24日に旅を始めました。
 
京都まで旧道を辿って全行程、約500キロです。1日にどのくらい進めるのか。ちなみに江戸時代の旅人はどのくらい歩いたのかと言うと、日本橋から保土ヶ谷宿までが33キロ、さらに戸塚宿までだと42キロになるそうです。初日戸塚宿まで行く人が多かったようで、そうなると時速5キロで歩くとして8時間半くらいかかることになります。時速4キロだと10時間半。実際この時代の旅は、毎日朝暗いうちにスタートして日暮れまでに宿場に着くという旅だったようです。それを毎日って大変ですね。1日40キロでも京都まで12日になります。江戸時代の人たちは、なかなかの健脚だったのですね。
 
さて私は一応ランナーですので、どのくらい行けるのか。ウルトラマラソン的に考えれば1日100キロとは行かなくても、40~50キロくらいは行こうと思えば行けるのだろうか。しかし、折角なら史跡を訪ねながら、写真もゆっくり撮って旅を楽しみたいもの。軟弱な私としては、出来ればゆる~く行きたいものです。と言うことで、最初の2日間で、大磯辺りまで行ければいいかなと言うアバウトでゆる~い計画でスタートしてみる事にしました。日本橋から大磯宿まで68.7キロほど。一日34キロちょっと。これなら遊びながらでも余裕で行けそうですよね。
 
こうして、記念すべき第一回東海道53次の旅がスタートすることになりました。
折しも、東京に緊急事態宣言の発令される前日の出発です。もちろんマスク装備でそそくさと日本橋を出発しました。朝の日本橋、晴天です。はるか500キロ先の京都三条大橋めざして、第一歩を踏み出します。新しい出発はとても嬉しい。
しかし、一体京都に着くまで何年かかるのでしょうか?
 

早朝8:00出発。 清々しい朝。

東京市道路元標。標識は神田寄りの歩道に面しているけれど、本物は車道の真ん中センターライン上にあります。
 
(続く)

涸沢 2019.10.01~02

9月1日~3日の日程で、涸沢にテン泊し奥穂の頂を目指す。これが、2019年度登山計画のメインイベントであった。しかし、9月30日からの週は天気予報が良くない。さらに台風18号も発生して、計画実行は悲観的な状況となった。楽しみにしていた涸沢~奥穂だが、せっかく行くなら良い天気の時に行きたいと、9月28日に計画を断念した。

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新穂高~双六岳〜三俣蓮華岳 2019.07.27〜30 ③(三日目)

 
最終日の双六小屋のテン場は、相変わらずの白いガスの中で明けた。青い空と眩しい太陽の期待は、3日目の今日も叶わず。
 
今日は新穂高まで下り、そこから新宿行きのバスに乗るのだ。笠ヶ岳に続く稜線を辿り、鏡平山荘までは一気の下りだ。天候が回復すれば素晴らしい展望が期待出来るはずなのだが。
 
稜線を進みながら、2泊した双六小屋のテン場方向を振り返る。青空もうっすらと広がってきて、展望の期待が膨らむ。

 
 
弓折乗越に到着。ここから稜線を離れて鏡平へと下る。

 
 
穂高の展望地、鏡平山荘着。
相変わらず周囲はガスで、槍穂高は姿を見せてくれない。ここで小1時間休憩をとって天候回復を待つが、それでもガスが切れることはなかった。雨に降られなかった事が、せめてもの救いか。

 
途中秩父沢で休憩をとった時に、雲が切れて遙かに高い稜線が僅かに見える瞬間があった。
凄いと思った。晴れた日に、また来たい。

 
出発地点の新穂高温泉には、12:00少し前に到着。バスは14:45だったので、まずはお風呂に入り、後はゆっくりビールと昼食をとって過ごす。
 
新穂高登山センターのすぐ裏にある中崎山荘のお湯、とても良かった! 白濁した湯は、飲用も可との事。登山の疲れが一気に癒される。下山した後、いい温泉に入れるのはなんとも嬉しい。

(写真は中崎山荘HPより)

(写真は中崎山荘HPより)
 
結局のところ、3日間の日程を通じて、青い空と太陽を拝をむことは出来なかった。
それでも、2日目には比較的近い距離にある、美しい山の風景は楽しむことが出来た。
北アルプスに登るのは2度目の私にとって、それは十分に感動的であった。
テントを担いでの新穂高から双六への道は、長くてきつい登りであった。しかしその先に広がっていたのは、とてつもなく美しい北アルプスの楽園であった。それが感じられたことが、収穫であった。また行きたいと思う。
 
 
 

新穂高~双六岳〜三俣蓮華岳 2019.07.27〜30 ②(二日目)

テントでの一夜が明けた。外の様子を伺うが、周囲は昨日と変わらず白いガスに覆われている。山小屋のモニターに映し出された高山地方の天気予報を見ると、午前・午後ともに雨予報だ。 なんということだ。天候回復への期待があっただけに、テンションは一気に下がる。
 

 
1時間ほどテントの中で待機。しかし天候は一向に回復の気配がない。仕方がないので、たとえ視界が効かなくても双六岳の山頂に足跡ぐらいは記しておこうと思い、出発の準備をする。出発したのはすでに7:30頃を過ぎていた。双六岳へ続くハイマツ帯の中の道を登る。今日は昨日のテン泊荷物から解放されているので、リュックは軽い。
 
 
 
まずは中道ルートで三俣蓮華岳を目指す。中道分岐で双六岳に直接登る分岐を過ぎると、道は平坦な台地状の草原となる。相変わらずのガスで近くしか見えないが、楽園のように美しい道だ。
晴れていたら、どんなにか素晴らしい展望が広がっているのだろうかと思いながら進む。

 
やがて道は三俣蓮華岳に続く稜線を進むようになる。するとこの辺りから空が明るくなり、うっすらと太陽の気配が感じられるようになる。天候回復への期待が膨らむ。
 
写真は三俣蓮華岳に向かう稜線の道。

 
一瞬だが、槍ヶ岳の穂先が雲の合間に顔を出す。一気にテンションが上がる!

 
雪渓の向こうに、双六から三俣小屋に続く巻道の展望が開けてきた。

 
ようやくその片鱗を見せ始めた北アルプスの風景!  美しい!
2841m  三俣蓮華岳山頂に到着。

 
 
三俣蓮華岳なと鷲羽岳の鞍部にある、三俣小屋遠望。今度来た時はあそこまで行ってみたい。

 
三俣蓮華岳からは来た時の稜線の道を戻って、双六岳を目指す。しかし双六岳は雲の中に。

 
稜線の道からは、三俣蓮華岳のカール地形が美しい。

 
2860m  双六岳に到着。しかしここはガスに覆われて、全く展望は効かない。

 
山頂から少し下ると、広々した双六台地に。
晴れていればこの先に、槍の姿が見えるはずなのだが。

 
この台地の光景を見る為だけでも、双六に来る価値があると思う。槍の姿は次回のお楽しみに。

 
台地の端から、急な岩の道を下る。

 
振り返ってみると、今下りてきた岩の斜面が見える。斜面上が広大な双六台地だ。

 
下り坂の正面に、鷲羽岳の姿が美しい!  

 
双六小屋への道をさらに下ると、双六小屋から槍ヶ岳に向かう西鎌尾根の最初の山、樅沢岳が姿を見せてくれる。昨日は何も見えなかったが、稜線の登山道がはっきりと見える。

 
双六小屋が視野に入ってくる。小屋の右手のテン場には、マイテントの姿も確認できる。

 
13:00過ぎに双六小屋到着。
この後、ランチ&ビールタイム。
山歩きの後の、至福の一時だ。

 
夕映えの時間帯。
周囲の景色が赤味を帯びてくる。
小屋の前に、夕焼の風景を待つ人たちが増えてくる。

 
しかし、期待したほどの夕焼けとはならず、ちょっと残念。
それでも、大きな鷲羽岳の姿はやっぱり堂々としていて美しい。
 

 

天候はあまり良くないが、この鷲羽岳の雄姿が見られて良かった。本当に堂々とした山容に惹かれる。